ここは東京森下。僕は今、「みたかや酒場」という小さな居酒屋に来ている。もうこの店に入ってから、かれこれ3時間くらい経っただろうか。腹の中は十分過ぎるくらいに温かい手料理で満たされ、お酒も結構飲んで、ほろ酔い加減でお勘定が出るのを待っているところだ。驚いたことに、ここの店はお客が料理を食べ終えても空いたお皿を下げることはせず、最後のお勘定の時にマスターがテーブルの上の皿を見て、計算をするのである。そしてその計算をするのはレジでも電卓でもなく、あの古典的な算盤、「そろばん」なのである。マスターの指は実に繊細で、ゆっくりと上下に動く茶色い珠の運動についつい見とれてしまった。
僕らが注文した料理は、おでんの盛り合わせに始まり、焼きさばとかんぱちの刺身、ほうれん草の胡麻和え、大根煮物、煮卵、鮭の特大おにぎり。それと生ビールとホッピーを数杯。まだまだ食べたい料理はたくさんあるのだが、胃袋のほうが「また今度」と言っている。しかしこのマスター、決して広いとは言えない厨房の中を機敏に動きながら、全てが計算されているかのように無駄無く効率的に次々と料理を作っていく。ここは昔は立ち飲み屋だったこともあり、すべての席がカウンターなので厨房の様子が良く見える。ジュジュッと揚げられる豪快なトンカツやバターがトロケ落ちる帆立焼きの香り。目の前に置かれたラッキョウ漬けの存在感…。見ているだけでも食欲をそそられ、楽しくなってきてしまう。 そして一つの厨房をお客さんがぐるっと囲んで食事を楽しむこのカウンターの形状が、店全体を更に活気づかせているのだろう。
だがそれだけでは無い。忘れてはいけないのが、女将さんの存在である。店の外にまで響きそうな明るくて張りのある大きな声でカウンター越しのお客さんと会話をしたり、笑ったり、何とも愉快痛快肝っ玉母さんといった感じだ。対照的な二人の息のあったコンビプレーで40年近くもずっとこの店を切り盛りしているのである。おにぎりを食べていた時に女将さんから頂いた、かわはぎの味噌汁の温かさは目を閉じるとじわっと体全体に広がっていくようで本当に美味しかった。
また、ここの店ではお客さんどうしで料理を交換するのも特別な事では無いようである。これ美味しいですよ、よかったらいかがですか、ありがとうございます、では私のもこれいかがですか、ありがとうございます。自分の小さな幸せを他人に譲渡し共有する。その場所にいる人達が、今、そこに同じく流れている時間に幸せを感じる。これこそが、人々の「満足感」「幸福感」を満たしていくものではないだろうか?真の幸福とは何だろう?
以前何かで読んだ文に、今の20代女性の関心事が「ブランド」や「ファッション」から「貧窮」の方へシフトしている、という事が書かれてあった。
「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私たちに与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向へシフトしている。「自分たちには何が欠けているのか」を数え上げることを止めて、「自分たちが豊かにもっているものを誰にどんなかたちで与えることができるのか」といった考え方に変わってきている。「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」のリスト作るより、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分ち与えることのできるもの」のリストを作る方が心身の健康にはずっとよいことである。震災のときに危機を生き延びてすみやかにダメージを回復することができる「危機対応」の考え方でもある。
といった内容で、筆者同様僕も、これはとても健全な傾向であると思う。またそこから、なんだかホッとできる温かな「小さな共同体」が生まれてくるだろう。世の中「金さえあれば問題解決、自己実現」なんて考えは失われつつあるのだ…失われてしまえ…大事なのは共有、共同、共生…とそんなことを考えていると、そろばんの珠をうごかしていたマスターの右指がピタリと止まった。
「4500円です。」
!?
一瞬耳を疑った。
なんとこれだけ食べて飲んで、二人で、この金額なのである。
驚き そしてマスターと女将さんの温かい人情に 感謝 。
ほんの三時間の間に、僕はこの「みたかや酒場」で、五感の全てを刺激され、アートを感じ、多くの事を学んだ。
居酒屋でこんなに幸せを感じたのは初めてである。
「また来ま~す!」
「どうもありがとうございま~す!」
僕らが店を出る時、ちょうどまた新しいお客さんが入ってきた。
「いらっしゃい!!」
と二人の元気な声が背中に響く。
またこの声が聞きたいな…と吐く息も白く、
酒場の余韻に浸りながら僕らはゆっくりと家路についた。
※僕をこの店に連れてきてくれた友人のKENさんのブログには
写真も載っていますので、是非そちらも御覧下さい。